職人の技術

『職人の技術』というものに対して、私の考え方。    私が投稿する記事に、よく『これぐらい、できて当たり前。』ということを書くことがありますが、それは別に、誰かに対しての嫌味でもなく、当て付けでもなく、職人として当たり前の意識として、『これぐらい、できて当たり前。』と書いています。      というのも・・・・・・例えば。        我が家に三番目が生まれた頃、それは、今の小学生の息子ですが、親方からいただいている給金だけでは、どうも上手く家計が回らなくなり始めていて、“さすがに、このままではマズい。” と思う日々が続きました。  もう、10年ほど前の修行時代の話ですが。      ふと思い出します。  親方は、私が修行を始めるときに “俺が認めるだけの腕が良くなれば、いくらでも(給料を)くれてやる。” と、私に言いました。    そこで私は考えました。 “ここから半年間、馬車馬(ばしゃうま)のように働いて、それで給料が上がらなかったら、辞めてしまおう。”・・・と。    まぁ、その頃でも私の職人としての経験は一応、10年は超えていましたから “オリエンテを辞めても、どこかの楽器店で拾ってもらえるだろう。” との憶測もあったわけで。        そう考えた翌日から半年間、それまでの仕事量と、その精度を1.2~1.5倍ぐらいに割り増しで、本当に心体が壊れるほどに働きました。    すると半年後に、ドンっと給料が上がったわけです。  “うわっ。マジで『力こそ全て』の世界だな。” と、その時思ったわけですが・・・・・・冷静になって給与明細を見て、気がつきます。    “あれ? これって『これまでに対しての評価』なわけだから、明日からも、この仕事量と品質を維持して働けってことか?!!”      まぁ・・・そうですよね。  やったことに対して評価をされて、給料が上がる。  ボーナスではなく、基本給が・・・。      うん、昇給した給与明細を見て、“しまった!” と愕然としました。    結果的に、それでなくても厳しい親方が、さらに厳しくなりました。  まさに地獄のような生活が始まりました。    ホント、無計画な情けいない武勇伝みたいですね。         でも、『高い技術がなければ、職人として家族を養えない。』というのは、当然なことなのです。          ここまで大きな話でなくても、例えば、先日、鉋(かんな)の薄削りの動画を投稿しましたが、私はコントラバスのボディを削り出すときに使用する小さな鉋でも、0.03mmの薄さで削りあげて仕上げていました。    そこまでの精度で仕上げると、削りあげたものには、もう、ほとんど鉋の削った跡も見えません。    そうすると、次の紙ヤスリで磨く研磨の行程の作業時間が圧倒的に短縮できます。      これは非常に精神力が必要で、身体にかかる負担も大きいのですが、一度、その技術を使ってしまうと、それが『オリエンテのコントラバスの製作行程』という歯車に組み込まれてしまうので、もう、その精度を維持しなければ周囲の職人に迷惑をかけてしまいます。    だから、新しい高度の技術を身につけたとき、その達成感は一瞬で、そこからすぐに、その技術は『日常』に溶け込んでしまいます。          職人にとって技術とは、生業(なりわい)を成立させる生命線なわけで、それができなければ、その職人にとって『〈職人〉として成立しない』ということになります。    だから、本来であれば『俺、こんな事できますよ。』というのは珍妙な事で、『俺、これぐらいできないと仕事になりません。』が本筋になるわけですね。          できないものは死に物狂いで、自分のものにする。  自分のものにした技術は、その瞬間から『それがなければ仕事として成立しない。』というものになる。    そしてまた、できないものを、死に物狂いで自分のものにする。    それが、本来の職人というものの在り方であり、生き様です。            だから私が身につけている技術は、私にとって全て『当たり前の技術』であって、何一つ、皆様に自慢をして誇るようなものは、ありません。    日本人で、誰が “俺は、箸が使えるぞ!” と誇る人がいますか?      そしてまた私の習得した技術は、25年間、死に物狂いで修行すれば、誰にでも身につけられる程度の技術でもあるので、なんの自慢にもなりません。

 それでできなければ、その人物の、ただの怠慢です。           『できるのが、当たり前。』  その精神を忘れてしまったら、職人としては、無価値です。