木枠と 下働きと

 オリエンテからの楽器は、このような木枠に入れられて送られてきます。

 この方法はチャキの時代からだというから、もう50年とか60年とか変わらずに採用されている方式で、『これで事故は起きないのか?』 と、よく質問を受けますが、私の修行時代でも、年間で(修理の楽器も含めて)500本以上を出荷していましたが、輸送中のトラブルというのを経験したのは、1年間で1本有るか無いかだったと思います。

 同じく国産メーカーのスズキはダンボールでの輸送でしたが、わりと楽器破損のトラブルはあったようです。

 私の修行時代でも、オリエンテはスズキの出荷本数を圧倒していたのですから、そう考えると、木枠の方が事故率が低い、ということですね。




 さて、修行時代には毎日のように見ていた木枠も、絃バス屋を開業してからは、一年に数回程度しか目にすることはありません。

 こうやって眺めていると、よく昔の修行時代を思い出します。




 私は高校を卒業してすぐ、オリエンテでの修行に入ってから、最初の丸4年間は下働きを経験しています。

 その下働きのあいだ、ほとんど楽器製作に関わることは許されず、毎日のように50Kgとか100Kg近い重さの材木を一人で持ち上げて(楽器の材料用に)製材をしたり、それをさらに楽器に使用する部位によって細かく切り分けたり、出荷用の木枠を作ったり、出荷手続きの事務作業、出荷前の楽器の最終点検からの梱包、さらに雑用など、そのような毎日でした。

 その当時は、年間で550本ものコントラバスを製作していたのですから、雑用だけで1日が終わってしまうのは当然です。


 下働きも3年間ぐらいは特に疑問も持たずに頑張れましたが、4年目も半分ぐらい過ぎた頃から、“自分は、何をしに京都まで来たのだろう・・・?” と思うようになります。

 世の中では『下積み三年』などといわれますから、3年ぐらいまでは、何となく、その先の希望を持って頑張れるのですが、3年を超えたあたりから “これで本当に良いのか?” と考え始めるわけです。


 それでも、ごく稀(まれ)に親方に呼ばれて “ちょっと、これを削ってみぃ。” と楽器製作を許されるのですが、当然、上手くは削れません。

 すると “これじゃぁ、使いものにならん。あっちで箱(木枠)を作っとけ。” と親方から追い返されるのです。

 その当時は、刃物も、ろくに研げる技術も持ち合わせてはいないのですから、刃物自体が全然切れるはずもなく、もはや、どうしようもありません。

 そうです、その当時の私には、仕事の時間に『刃物を研ぐ時間』など、ありません。 それでは仕事を帰宅してから研げば良いと思うのですが、実際のところ下働きの重労働は、過去に何度か、帰宅して玄関先で倒れ、気がついて目が覚めたら真夜中・・・などという経験を例に挙げれば、どの程度であったか容易に想像していただけるかと思いますが、やはり帰宅してから刃物の研ぎの技術を学ぶことは不可能でした。

 そもそも、刃物の研ぎ方など、今まで一度も教えてもらった経験はありません。




 下働きの4年目の秋に入った頃でしょうか?

“丸4年頑張っても楽器を作らせてもらえなかったら、もう、辞めて地元に帰ろう。”

 と思いました。

 その頃には、夢も希望も自尊心も失い、すべてがボロボロになって、“残るは、意地と根性!” だけで踏ん張っていたように思います。


 しかし、その意地と根性の結実が、私の木枠の製作技術と梱包技術でした。

 『職人は結果こそが全て』という真理は疑う余地もなかったのですが、その当時の私には楽器製作で結果は出せません。 それならば、今できる自分の仕事の中で〈結果〉を出して、親方に認めてもらおうと必死でした。

 木枠を作るときに材木の木目の組み合わせで強度を出し、釘を打ち込む角度と締め(しめ)具合、梱包するときの楽器の位置と固定する力の加減などを徹底的に研究して、下働きの4年目の終わりの頃には、『木枠に楽器を梱包して、そのまま、ぶん投げても楽器も木枠も破損しない』というところまで精度を上げました。


 もう、“これでダメなら、辞めてやる!” という気迫で頑張った、下働き最後の4年目ですね。



 今になって、この木枠を見ていると、そんなことを思い出します。

 そして、“この釘の締め方が・・・・・あまい。” などと、姑(しゅうとめ)のように細かくチェックして、二代目と電話をしているときに言うのです。

  “ちゃんと、若い奴の教育をしてるのかぁ?” って。