卵が先か?鶏が先か?
物事の起源が曖昧な時に使われる言葉。
もう何ヶ月も前の話ですが、職人仲間と話をしていたときの話題。
とある弦楽器職人が言ったそうな。
“ウルフトーンは楽器が良く鳴っている証拠だから、無理に消さなくていいんだ。それは演奏家が演奏技術で対処すれば良い。”
“あぁ、この業界はもう終焉だな。”
と私は思ってしまいました。
職人側が“ウルフトーンは消さなくて良い。”と言った。
職人側が“ウルフトーンは演奏技術で対処すべきだ。”と言った。
すなわち、職人が『(私は)この先、ウルフトーンを除去する技術を学ぶことはない』と宣言することと同じ意味です。
“ウルフトーンは演奏者が対処すべきもの。”
これは演奏者側が同じことを言うのと、職人側が言うのとでは、全く意味が違ってきます。
あぁ…これはコントラバスの文化は終わったな、と。
もうこれ以上の文化の発展は望めない、と。
私は落胆したものです。
しかしながら、これを『慢心だ』と断罪するのは簡単ですが、実際のところ演奏者からウルフトーンを消して欲しいという要望がなければ、この発言は何の問題もないことです。
需要がなければ、やる必要はない。
需要がなければ、その技術の習得の必要もない。
当店でも、
“ウルフトーンというものは、演奏技術で対処するものだと考えます。”
と言う演奏者がご来店された際には、私は“そうですか。”と、それ以上のことは言いません。
要望がなければ、やらない。
要望がなければ、(本来は)やる必要がない。
『需要がなければ、やる必要はない』は非常に理にかなっている。
私たち職人は、趣味の工作クラブの延長で活動しているわけではない。
究極的には経済活動(仕事)として、職人として生きている。
私だって、要望がなければ、やりません。
コントラバスの4本の弦の音色を揃える技術も、ウルフトーンを消す技術を習得することも、要望がなければ必要ない。
要望がなければ、プリアンプだって開発しなくて良い。
要望がなければ、ピックアップの修理もしない。
要望がなければ、アンプの修理もしない。
要望がなければ、エレキベースの修理調整だって、やる必要が全くない。
これら全ては、ご来店いただいた演奏者の方々と交わした議論の中から出た要望で動き始めたことです。
私は、趣味で弦楽器職人をやっているわけではありません。
ウルフトーンを消す技術は、正直に言うと、そう簡単な技術ではありません。
睡眠時間を削って、定休日も捨てるぐらいの熱量で研究と実験を繰り返し、辿り着いた技術です。
弦4本の音色を揃える技術も同じように、実は、そう簡単に習得できるものではない。
『人生を捨てる覚悟で修練を積み上げれば、誰でも可能な技術』という表現は、嘘ではないし、特に大袈裟な言い回しでもない。
私の店では、多くの要望がある。
経済的には〈需要〉がある。
だから、そのような技術を提供できるように、店(私の技術)が整えられている。
技術を習得しようとしない職人が悪いのか?
それを声を上げて要望しない演奏者側が悪いのか?
それは簡単に定義できるものではないと思います。
文化の発展には、演奏者側と職人側の両輪が回らないと、発展はない。
そして、演奏者と職人の意思や感性の歯車が噛み合わないと、技術の発展はない。
“ウルフトーンなんて消さなくて良い。”
と言った職人のところには、おそらく“ウルフトーンを消してほしい。”と要望を出す演奏家がいないから、その職人はウルフトーンを消さなくても良い、と思っているのかもしれない。
壊れたピックアップマイクを持ってきて、
“これ、直して欲しいです。”
と要望を出す演奏者が来店されるから、私はピックアップマイクの修理技術を研究習得をする。
私だって思います。
必死で技術を習得しなくとも、楽器を売ることで商売が成立するなら、そりゃ最高さ。
でも、〈職人〉としての本質は、そうではない。
そうあっては、ならない。
それは〈商人〉の思考です。
強い言葉で表現するのであれば、職人を監視するのは演奏者の役割です。
卵が先か?鶏が先か?
職人側が先んじて演奏者に新たな技術を提供するべきなのか?
演奏者が職人に要望をすることで、新たな技術革新が生まれるのか?
私は、『どちらが先か?』という議論は不毛だと思います。
ただ…私が職人であるという立場上、私は『文化が発展しないのであれば、それは(私自身も含めて)職人側に大きな責任がある』と発言するでしょう。
演奏者が職人を見捨てた時点で、コントラバスの文化は破滅に向かいます。
どんなに良い楽器を作っても、どんなに素晴らしい修理技術を施しても、その楽器を使って演奏をする人が居なければ、全く意味がない。
もちろん、以前から申し上げております通り、私は演奏家と職人は同じ立ち位置でありたいと願っています。
どちらが偉いとか、どちらが偉くないとか。私は、そう言うことは好きではない。
だからお互いに無関心になるのではなく、演奏者も職人も、コントラバスという楽器を通して、お互いを支え合うような関係性を築くことができれば、良い音楽と、コントラバスの文化の発展につながっていくのかな、と思います。
期待をしつつも、なかなか難しく悩ましい問題ですね。