先週、ちょいと無理をしすぎたせいで、左目を痛めてしまいまして。
だいぶ回復をしてきましたが、まだ目の奥の鈍痛が抜けないので休養をしている感じです。
以前にも幾度か紹介していますが、刃物を使う職人は右手に刃物を持つ場合、刃先を見るのは左目です。
よほど調子の悪いときには、無理をせずに眼科に行くようにしていますが、若い頃(10代)から30年近く酷使しているのですから、たまに眼球が悲鳴を上げるのは仕方のないことなのでしょう。
もっとも…おそらく、このような症状は、職人の多くが抱える問題というよりは、体質のような気がします。
職人世界なんてものは、その深みに探究心を求めれば求めるほど、短命になるような気がします。
それこそ、職人世界の深みまで到達できた長命の職人こそが、匠(たくみ)と称される、多くの職人から尊敬される立場になれるのでしょう。
好き勝手にコントラバスを作って、それに理解のある人々が、それを購入して、職人は生計を立てる。
おそらく、これが一番、気楽な職人生活です。
自分を中心として、周囲が動く。
ただ好き勝手に、コントラバスだけを作っていれば良い。
私も、そのような職人像に憧れを抱いた時期もありましたが、結局、周囲がそれを許してはくれませんでした。
まぁ…逆に考えてみれば『好き勝手にコントラバスを作っていられる≒職人としては、それほど期待されていない』ということになるのでしょうか?
演奏家から多くの要望がないから、〈それ〉に対応する技術の習得の必要がなく、好き勝手に作っていられるのです。
私だって、できるのであれば電気系の仕事を全て手放したいと常々思っていますが、それは周囲が許さない。
“これはコントラバス職人の仕事だろうか…。”
と悩んだ時期もありますが、今は、この現状も受け入れています。
私は『No.1』には縁がない。
縁がないと言うよりは、素質がない。
子供の頃から、いつも補佐役で、自分が主役(No.1)になったことがない。
この店を開業するときも、“自分の店を持ちたい!”と願ったわけではなく、その当時、オリエンテの二代目と“この先、オリエンテが生き抜くためには、外部からのサポートが必要不可欠だ。”と一年以上議論を積み上げた上で、私が地元に帰って独立をすることになりました。
私自身は今でも、(職人としては)二代目を側近くで支えていた方が幸せだったのではないか、と考えています。
結局、私には、この店を(私の思い通りに)盛り上げようという気概は全くありません。
身の丈は、弁える必要がある。
需要があって、供給がある。
私は常に、その土台の上で思考します。
私は芸術家ではありません。
世の中を顧みずに、自己満足で需要のないものを作っても、そこに意味を感じません。
ごく少数の身の回りの人々が求めることは、それは需要ではなく、趣味です。
“そもそも、自分のような凡庸な人間が(コントラバス)職人をやっていることに、無理がある…。”
と思いことも、多々あります。
演奏家に〈共感〉できても意味がない。
“そうですね。素晴らしい、素晴らしい。”
と言っていても、何の意味もない。
〈共感〉からは何も生まれない。
演奏家が語ること、求めるものに対して、〈共感〉の一歩先、“それなら、このような調整はいかがですか?”と〈提案〉できなければ、意味がない。
自分のような音楽的に凡庸な存在が、日本の音楽の文化を牽引するような演奏家と向かい合ったとき、自分の弱さを痛感します。
“あっ………言ってる意味が、わからない。”
という瞬間が、実はある。
その時は、瞬間的に〈頭の中にあるもの〉を必死で引っ張り出して、組み合わせて『こたえ(答え 又は 応え)』とします。
〈共感〉で留まっていては、〈提案〉はできない。
職人に求められるものは知識よりも、まず感性。
そして〈感性〉を〈音〉として具現化できる技術。
もしかしたら、他の依頼は受けずに、誰か一人の演奏家を支えると言う立場であれば、また少し違うのかもしれません。
ただ当店は、誰かを専属にサポートしているわけではなく、多くの演奏家を支える立場なのですから、求められる〈感性〉の幅は広く深く、また精度も求められています。
だから日々の仕事の中で、私自身の〈感性〉がバターのように削ぎ落とされていくような感覚を覚えることもあります。
減った分は補給しなければならない。
音楽でも写真でも映像でも、何でも良い。とにかく、すり減った〈感性〉を貪欲に補填する作業が必要になります。
だから日々の投稿の、特に【雑感】とか【コントラバスのある風景】【コントラバスのない風景】がネタ切れを起こさずに延々と続いているのは、この感性の補給作業の影響によるところも大きいように感じます。
“どこかでガス欠を起こして、終わってしまうだろう。”
と私自身は考えています。
おそらく、コントラバス製作、修理技術にに必要な木工技術は問題ないでしょう。
ただ、私の内面にある音楽的感性は、いつか枯渇し、演奏家の期待に応えられなくなる日が来るのだろう、と思うことが多々あります。
そこに怖さを覚えることもありますが、それは受け入れるほかありません。
いつも申しあげますように、当店はコントラバスの世界からの需要が尽きれば廃業です。
それは、おそらく私の木工技術よりも、音楽的感性が、世の中の演奏家に求められなくなった時だと思います。
とはいえ、皆様からの需要が尽きる前に、身体を壊して休養しているのですから、もう少し体調管理と、仕事の段取りを考え直す必要はありそうです。
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